高崎市通町にあるお寺「大信寺」です
こちらは「江戸 徳川第三代将軍 家光公」の弟君である「徳川忠長」が埋葬されている墓地があることで有名です
墓石です
「葵の御紋」と形状が 徳川家のお侍の墓所であることを明示しています。
ただ 将軍のすぐ下の 同母の弟君の墓地としてはいささか寂しいとも思う
市内 東一条通り 「東竜」のある通りに正門があります
ここから参道が始まりますが 参道脇には通常の住宅が建っています
駿河大納言の墓
徳川忠長(幼名國松)二代将軍秀忠の第三子として生まれ 父母に愛され世子に擬せられたが、
春日局の運動が功を奏し、兄家光が三代将軍となった。
忠長は 甲・信・駿・遠・五五万石の大守となり駿府城に入封した。
寺参道(両側は普通の民家)を行くと正面に本堂が見える
それほど 大きくて立派 とはいうわけではないが 落ち着いたたたずまい
本堂の窓ガラスを見ると 中に「輪つなぎ」が飾ってある
隣の同経営の「明徳幼稚園」の作と思われる(^^)
墓地内に入ると ひときわ大きな墓石がある
三葉葵の御紋がしっかりと刻まれている
廻りを厳重に囲っています
「徳川忠長の墓」と看板があるが 西日が強く字が飛んでしまった
「父の秀忠や母の江は、病弱で吃音であった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたとされ、それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったとされる。この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代派の勝利で終わる。」(wiki)
将軍職の兄弟での争い
事実は解らないが 本人たちは 関与していなくても それを利用して我が身の安泰を図る家臣の企て?
小中学校での歴史の教科書で「三代 家光」は15人の将軍の中では良い方に位置すると思う
しかし こちらに書かれる 「弟 忠長の方が優秀 家光はちょっと・・・」とある
それにしても 現在のドラマに書かれる 「春日局」もいい人であったり悪女であったり
どのサイドに立って物を見るかで評価は全く変わってしまう
明治維新時にしてもそう
会津サイドからみた維新時の話を見るまでは 新政府「薩長土肥」は正義の味方だったりするしね
忠長と会津藩の始祖である「保科正之」は異母兄弟であり 会津藩には忠長の力で 家康の遺品などが与えられている
なんだか 江戸期の初期と最終期に変な縁があったりしてね(++)
優しかったり 周りに気遣いしたり 義を重んじたり 優秀であったりして本来は評価される者が
おそらく家臣団の企てで 「蟄居」「改易」「領地没収」
最後は高崎城に「幽閉」- 「自刃」 ・・・ホントに自分で?と思ったりする
ただこれも 墓地のある「高崎」市民である私が思うところと たとえば春日局の菩提寺「川越」の人では
思い入れが異なるのでしょうね
そして 忠長の子が「松平長七郎」
ご存知「長七郎天下ご免!」や「長七郎江戸日記」で有名ですね
父の死後も高崎城に幽閉されていたが 紀州徳川氏に助けられ その後諸国で活躍する(架空の人物です)
こちらのお寺 「浄土宗」
徳川の将軍が多く眠る 東京・芝の「増上寺」と同じ宗派
本堂の屋根下に「ホンダCB750」が停まっている
住職さんの愛車なのだろうか
「早川光」がいるのか・・
外へ出て 大通りを行けば 旧高崎郵便局(今は市営駐車場)の壁に
中山道67次の浮世絵の群馬県内の宿場のレプリカが貼ってある
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- 2013/08/21(水) 22:31:55|
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